『ピアニストの澪標』
※時期/WINGS 高校3年(本編終了後)
30分制限の即興トレーニング小説。WINGSのさりげない日常。お題「ピアニスト」
2019年秋 折本2019企画用に改稿(初出:2016年3月)
白くて長い指がしなやかに動く。
素早く抜けるように流れゆくトッカータ。ゆったりした歩調で優しく頬を撫でつけるアンダンテ。
その音楽は今日も腹の中で蠢く黒いものを浄化するかのように、優しく身を包み込んでくれる。聖母の息吹のような光と音。
この世界を知った頃から相羽勝行は、その音楽の中で目を閉じ、眠るように生きていたいと思っている。
何の愛想も要らない。
下らない腹の探り合いもしない。
気に入らない他人に合わせて、わざわざお行儀のいい顔を作って見せなくてもいい。
ただひたすら、彼の奏でるピアノ曲に身を委ね、その音楽の海の中に沈んで溺れてしまいたい。
毎日こんな音楽に包まれていては、堕落してだめになってしまいそうだ。だがこうやって気を抜くことができる居場所が手の届く距離にあるだなんて、どんなに幸せなことだろう。太陽光を存分に浴びて温もりを取り返した真綿の布団の中で、ぐずぐずに甘やかされているようだ。願わくばもう何も考えないまま耳以外の全機能を停止したい。
目の前に広がるは、プロデューサーに赤入れされた課題まみれの手書き譜面。過去問題集と書かれた分厚い参考書と大学ノート。ペンを手に取ったまま、気づけば勝行の瞼はうっすらと閉じていった。
++
「……かつゆき? 寝てるのか?」
思う存分にピアノを弾き終え、少し休憩したくなった今西光は、振り返った瞬間視界に入った後ろの光景に驚き、声をあげた。
いつもなら自分の近くでせっせと勉強しているか、ノートパソコンを開いて真剣に仕事している。ピアノを弾き終わったら笑顔で「疲れたね。俺、コーヒー飲みたいんだけど。そろそろ休憩しないか」と間髪いれずに声をかけてくれる。そんな彼が、今はペンを片手に座ったまま寝ていた。
床に投げ出された長い足の上には、勉強道具やプリントの類がひどく散乱している。
(うわ……目の下、クマできてるし)
知り合った時からあまり睡眠時間をとらない人間なのは知っている。一分一秒の寝る暇も惜しむほど、やりたいことが沢山あるのだと言っていた。本能のまま睡魔に負けてすぐ寝落ちる光には考えられない所業だ。
「こんな顔になるまでやりたいことって、なんだっつーの」
はあ、とため息をつきながら、光は「床で寝てたら風邪ひくぞ」と自分がいつも言われる言葉をそっくりそのまま投げつけた。
起こす……?
うっかり触れたら、すぐに起きてしまいそうな気がして、光は一瞬出しかけた手を引っ込めて思い悩む。気遣い魔の彼のことだから、自分がうたた寝なんかしていたと気づいたら「ごめんね寝てた」と謝ってきそうだ。そのように言われる筋合いもないし、できるならもっとがっつり休憩してほしい。
仕事や勉強のことなど何も手助けできない自分は、ただ傍で好き放題にピアノを弾いているだけだ。それが入眠剤か、子守歌にでもなったのならば万々歳なのだが。
「……たまには全部やめて休めばいいのに」
ソファに凭れ、床に座り込んだまま寝落ちた勝行の周りに広がる書類は、どれもこれもバンド活動での資料や譜面、契約書など、大人たちから押し付けられた仕事のものばかりだ。その下に埋もれているのは、光にはよくわからない難しそうな大学受験参考書。
夜はいつも自分が先に寝てしまうし、朝も支度を済ませた勝行に起こしに来てもらうばかり。無防備に眠る彼の姿を拝める機会はむしろレアもの。だがそれを堪能するほどの余裕はなかった。
「俺が傍にいたら……疲れる?」
心なしか皺よって見える額にほんの少し触れるだけのキスをすると、不安そうにもう一度その顔を覗き込んだ。
――よかった。まだ起きない。
次は頬と頬を摺り寄せてみる。人肌が暖かくてどこか気持ちいい。すり寄り、隣に座り込む。
(一緒に寝ようかな)
でも邪魔になるかな。
起きてしまうかな。
手、つないだら……つなぎ返してくれるかな。
眠り姫の横に長らく座り込んでいた光は、やがてもう一度唇に軽いキスを落とし、その場を離れた。
静かに食器棚の扉を開き、湯沸かし音の鳴らないやかんに水を入れる。
温かいコーヒーが出来上がる頃、きっと彼は目覚めるだろう。上品な香りに包まれながら、「おいしそうだね」と笑顔で。
カチカチ。ぼっ。
何気ない生活音が再び、二人の部屋に彩を灯した。
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