二人で一緒に暮らそうと言って選んだ、東京は有楽町のマンション。
十階建ての最上階にある窓をがんと勢いよく開けて、今西光は日差しが眩しい外の世界をまじまじと見つめた。
すうっと鼻の上を通り抜けていく風が、おはようを告げながら前髪を揺らす。
ほんの少し待つと、窓下に見覚えのあるスーツを着た男がぴんと背筋を張って歩く姿を見つけることができた。いや、視力はさほどよくないので、実際の姿勢なんてまるでわからないのだが、なぜだかパリッと身体全身にアイロンをかけたかのような廉潔さが、上から見下ろしていてもなんとなく伝わってくるのだ。
聴こえるかはわからないが、思い立って彼の名を呼んでみる。
すると姿勢を正したまま、青年は下からこちらを振り返り、見上げて光を見つけてくれた。聴こえたかな、と嬉しくなって手を振ってみる。鏡のように手を振り返してくれるのが何故か嬉しい。
子どもじみたことをやっているのは分かっているが、本当に小さな子どもだった時代も、こうやって学校と自宅を往復する弟にいつも手を振っていた。いつからか、見送ることすら叶わなくなったけれど、思い出したら急にやりたくなるなんて、不思議なものである。
マンション横のロータリーに姿を現した白のワンボックスカーが、上を向いて手を振る彼の傍にすうっとつけられた。彼の専属SPが運転する自家用送迎車だ。名残惜し気にもう一度だけこちらを見上げると、彼はすっと車両に乗り込んで姿を消した。
もう彼の姿は魔法のように見えなくなった。それでも光は、車が東京の混雑した景色に溶け込み見えなくなってもずっと、ずっと窓に貼りついてその様を見つめていた。
朝日が斜めに射す窓際で、キャラメル色の柔らかな髪が靡いて反射う。
この無駄に高級でだだっ広いマンションを買ったと強引に連れてこられた時は反対こそしたが、光は天空に近いこの場所が好きだ。
青い空も、白い雲も、夜の煌めく星たちも、手を伸ばせば届きそうな場所にある。そしてきっと、死した人間が逝くと絵本に書いてあった、天国という場所もきっと、このすぐ近くにあるのでは。そんな気がして、光は綿わたのようなもこもこ雲の先を、目を凝らしながら今日も見つめていた。
旋回する大群の羽が、光の目の前でバサリ音を立てて通り過ぎていく。風と共に、流れていく鳥の大群だ。
家族かな。
地上では見かけられない、壮大な光景に見惚れていると、最後尾に遅れて続く小鳥がこちらをちらりと振り返った気がした。
「お前、ちゃんとついて行けよ。おいて行かれるぞ」
慌てて声に出すと、小鳥は何事もなかったかのように、仲間の輪にするりともぐりこみ、整列して飛び立っていく。不思議な音韻を、ニュースキャスターが端的に告げる注意報のように、光の耳元に残して。
『オマエもな』
その声は、雲の中にうっすらと消えていく。
「……うるせえ、俺のは留守番だ!」
置いて行かれたんじゃねえし。
遠く見えなくなった小鳥に向かって言い訳めいた文句を思わず投げつけると、光は口を思いっきり尖らせて窓を閉めた。
空から吹き付ける風が、急に冷たいと感じた。
独りきりの、朝だった。
…… ……
今までに同居人がいない日は何度もあったし、別行動だったこともあった。ただ、どちらかと言われれば、一緒にいることの方が、回数的には多かったな。それくらいの程度だ。
だからこれといって特別でもなんでもない、普通の朝を過ごすつもりでいる光は、誰もいない台所で音楽プレイヤーのスピーカー音を最大に上げた。いつも聴く曲は決まっている。だんだんレパートリーが増えて、百曲以上の音楽がランダムに流れるようになったプレイヤーの再生ボタンを押すと、光はいつも通り洗い物からスタートした。
ついこの間まで体調を崩して入院していた、病み上がりの身体だ。無理に家事はしなくていいよと言われたものの、動いていないとどんどん訛ってしまいそうだし、台所が汚いままなのは気分的に滅入る。スピーカーから聴こえてくる切れのいいストラトキャスターの高音域なサウンドに合わせて、鼻歌交じりに食器類を片付けていく。
陶器がぶつかる高音も、勢いよくぶつかり合う水流が奏でる低音も、全部ギターの音に合わせて楽し気に踊り出す。
背後から聴こえる洗濯機の稼働音はリズムベース。
台所は抜群のサラウンドシステムだ。
家事から生まれる音楽に全身を委ねながら、光はいつも通りのリズムで手際よく片づけを済ませ、洗濯物を干して掃除機もかける。休日だったらここまでがいつもの時間だ。
そうか俺、もう学校ないんだな、と思った途端、時間も気にしなくていいことに気づく。付きっぱなしのパソコンの傍にある、大きめのデジタル電波時計は9時を告げていた。
時間はまだまだ、いくらでもある。
「そうだ、ピアノ」
さっきの台所で楽しかった気分を音楽にしよう。
大きめのマグカップにインスタントのカフェオレを作り、ずずっと啜り飲みながら、光は自分の部屋にそれを持ち込んで閉じこもった。
作曲、という名の仕事に打ち込むために。
社会人というと聞こえはいい。
だがそれは、己一人の力で生きていく大人になるための足枷にすぎない。
あと四年、学生生活を謳歌するよと言っていた同居人は、電車で数駅先にあるという芸術系の名門大学に入学した。本当は親が決めたレールの途中にある学校へ行かねばならなかった彼だが、WINGSの活動を続ける先にあるもう一つの自分の夢を見据え、父親と激しくやりあった末の決断であることを光は知っている。自ら彼の後押しやお膳立てまでしたくせに、自分とは違う荊の道の先の高みへと、どんどん突き進んでいくパートナーの背中がわけもなく遠くに感じた。
それは薄暗い霞がかって、だんだん見えなくなる。
「……ま、って」
俺はまだ、出かける準備もできてないまま。
寝間着で、布団から出ることもかなわない。
パン。
目の前で音が弾けて、風船のように割れた。
「…………」
調子よく自由に弾いていたピアノの音ですら、途切れて消えた。驚きのあまり目を瞠った光の背中には、知らぬ間に嫌な汗が流れ落ちていた。
急に現実に引き戻されるかのような、ひやりとした感触が肌を伝う。
「…………なにやってんだ、俺……」
今は一体、何時だろう。
……あいつはもう帰ってくるかな。
急に無音になった世界の中で、光は慌てて時計を探す。滅多に覗き見ないそれは、もう出かけなくなった自分の腕にはついていなかった。
買ってもらった時計を探し求めて、ガサゴソとベッド周りを漁ってみたり、着替えの詰まった箪笥の上に手を滑らせる。あちこちうろついた後で、テーブルの上に置きっぱなしだった黒の腕時計を見つけてほっと胸を撫で下ろした。
分針はまもなく午後3時を告げようと微細に動く。
何時間もピアノを弾き続けていると、今が何月何日で、何時なのかもさっぱりわからなくなる。すべての現実世界から逃避しきって音楽創作に夢中になる間は楽しい。
だが、ふいに音楽が自分から消えた途端、自分の今居るセカイが何時の何処なのか、それすらもわからなくなる闇の世界に閉じ込められることが果てしなく怖い。
この時計はそんな光が、現実に生きて存在していることを証明してくれる、大事な代物だ。うんと高級そうな店で買ってもらった、相方からのプレゼント。
これを手に持つだけで、今傍にいない彼とつながっているような、そんな錯覚すら覚えた。
(…………つけとこ)
出かける用事もないけれど、家にいたら装着してはいけないなんてルールもないはずだ。だから光は慣れた手つきでそのベルトを右腕に巻き付けた。
どこからともなく、お腹がぐぅ、と音を立てて主張する。
「そういや、昼飯くってねえや……」
何か食べようと思い、のろりと自分の部屋を出た途端、静まり返った廊下と玄関が自分の視界に映り込んだ。
いつも通りの景色なのに、なぜか身震いがする。
瞬間、足が竦んだ。
へんだなと思いながらも、なんとか足を前に進めることに成功すると、その先にあるリビングの扉をガチャリと開けた。
「おかえり、光」
いつもなら、そう言って笑顔で返してくれる人は、まだそこにはいなかった。
持ち主不在のパソコンが、黒い画面の向こうで静かに動いている。外され、横たわったままの大型ヘッドホンが、こちらをじっと見つめ返す。
置き去りの楽譜とシャーペンが、無造作に置かれたままのデスク。あらゆる音楽機材をコードでつなぎまくった自作スタジオのスペースには、誰も座っていない回転座椅子が、寂しげに佇んでいた。
そういえば、彼は昼食をどうするつもりだったんだろうか。
こんな時間になっても帰らない以上、どこかで適当に買って済ませたか、まだ何も食べないまま勉強しているのか。
そもそも、今日は一体何時に帰ってくるんだ……?
聞いたかどうかも記憶にない、今日の予定がさっぱりわからず、光はしばらく無人のスタジオスペースを睨むように見つめ続けた。その手前にあるソファにどかっと勢いよく座り込み、目の前にあった大きなクッションをぎゅうっと抱きしめる。
その抱き心地は頼りないけれど、何もない空を仰ぐよりは自分を慰められるような気がした。
腹減ったなぁ……
メシ、どうすんだよ。
おまえいつ帰ってくんの。
ライブハウス、今日行くよなあ?
俺も行っていいのか。
つーか、行きたいんだけど。
お前は?
ダイガクって、何時まで?
俺は、あとどれくらい留守番してればいいの。
あとどれくらい…………
一人なんだろう
下らない嫌悪感と焦燥感ばかりが募るソファの上で、気づけばいつの間にか全身小刻みに震えていた。身体を冷やしては帰ってきて早々怒られる、と思い、いつも畳んで置きっぱなしにしているマイクロファイバーのひざ掛けを引っ張ってきて、無造作に被る。クッションに額を擦り付け、これでもかと言わんばかりに握りしめた。
素肌に温かみのある何かを当てているだけでも、まだ落ち着いていられる。それでも、待ってばかりではつまらない。ピアノをもう一度弾く気にもなれないし、ならばゲームという気分にもならない。
「つまんね……」
これから毎日、こんな生活なのかな。
夢を追うことも、選ぶこともままならないこの身体で、今の自分にできることは作曲しかない。ピアノを弾くこと以外に、できることなんて何もないのだ。
それでも、日々忙しそうに仕事の説明をしてくれたり、自分の曲をアレンジしながら学校の勉強をこなす相方のために、美味しいご飯を作ってやることぐらいなら、できるのに……。それしかできないのに。
いつまでも帰ってこないその姿を求めて、気づけば光の右腕は空を描き始めた。
黒の腕時計が、光の視界に映り込む。
その触感は無機質で、硬くて、冷たかった。
残響のように、朝の小鳥の声が聞こえてきた気がして思わずその時計で耳を塞いだ。規則正しくも冷たい機械音が警告のように細かく旋回する。
(ばかやろう)
置いて行かれたわけじゃない。
俺は、まだ。
…… ……
「ただいま」
待ち侘びたその声が耳元で聴こえてきた時、光の意識はほとんど夢うつつ状態だった。それでも寝つけず、ひざ掛けにくるまったままソファに寝転がっていた光は、声の主を求めてがばっと起き上がった。
ゴチン
物理的に脳みそが砕けそうな音がして、同時に痛みが駆け抜ける。
「いっ…………」
「……った……」
お互い額を思わず押さえつけ、しかめ面をしたままうめき声をあげた。すぐ傍にいたことに気づかないまま飛び起きた光の頭が、寝ているのかと確認しに覗き込んだ青年、相羽勝行の顔面を直撃したらしい。
「……い、ってえな!ばか!」
「いきなり起きるからだろ」
「うっせえ!だいたいお前、帰ってくんのおせえんだよ!」
「は?」
「ばか!」
頭をぶつけあったことで怒っているのだと思ったのに、全く別のことを突然怒鳴りつけてきた光に、勝行は首を傾げた。
皺ひとつ見当たらないスーツの襟を引っ張りながら、光はものすごく不機嫌そうな顔で口を尖らせる。
この顔に言いたいことがいっぱいあったのに……ジンジンする額をさすりながら、やっと戻ってきた相方の存在を手に触れて確認した途端、言いたいことの半分くらいはふわふわとどこかへ飛んでいってしまった。さっきまでの陰気な警告音は、ウソみたいに何も聴こえなくなっていた。
「かつゆき」
代わりに朝、窓越しに呼んだきりだったその名を告げると、彼はふわりと優しい笑顔を向けた。
「ただいま、光」
きっとこれを所望していると見越したのだろう、その頬に触れるか触れないかくらいの浅いキスを落とした。その目元に濡れ跡を見つけて、泣くほど痛かったのか・ごめんな、と小さく呟く。
「俺って案外、石頭だから」
「泣いてねえ!」
「でも」
涙目の光に何かを言い返そうとする勝行の唇を強引にキスで塞ぐと、これ以上反論するなと言わんばかりにめいっぱい抱きついた。
さっきまで光の腕の中にあったクッションは、床下に放り投げられてくったり転がっている。代わりに力いっぱい抱きしめられた勝行は、爪を立てんばかりの勢いで背中に手を回す光に、苦しいってば、と文句を漏らしながら光の上に倒れ込んだ。
朝から皺ひとつなかった綺麗な高級スーツが、光の腕の中でもみくちゃにされていく。
「帰ってくるなりなんだよ……どうした」
「……」
「また嫌な夢でもみた?」
「……」
「困ったことがあったら、いつでも電話してくればいいんだよ。そのためのケータイなんだから」
「…………」
散々文句や悪態をつくだけついておきながら、勝行から抱きしめ返した途端、黙り込んで大人しくなる。それでも離さない両腕の中にしばらく閉じこもりながら、勝行は毛布ごと光を抱きしめてその髪を何度も撫でた。背中をとんと優しくさすってやると、気持ちよくなったのか光の腕からだんだんと力が抜けていくのがわかる。
「……光?眠かったのか」
「ちが……」
昼ご飯、一緒に食べると思って待ってた。
ホントに帰ってくるのか分からなくなって、だんだん不安になった。
いつも通うライブハウスに行きたいのに、一人で行っていいのかわからなくて。
どこに居るのかわからないまま、手の届かない距離に行ってしまったことが急に怖くなって……。
はやく、お前に会いたかった。
電話?
……そんなもの、思いつきもしなかった。
そう言ったつもりだったけれど、感じる体温に安堵した途端、抜けきった緊張感では最後まで言葉を紡ぐことはできなかった。緩んで開きかけた口の中に残る、想いを伝える言葉は風に乗って雲に溶けていく。
俺、留守番頑張ってみたけど。
願わくばあまりしたくない……。
右腕の腕時計に視線を移した勝行が、困った顔をしながらも、幸せそうに微笑んだ。昼食を食べ損ねたまま、自分の帰りを首を長くして待っていてくれたことだけは理解できた彼は、抱いただけで眠りに落ちていく光の頬を何度も何度も撫でた。前髪を梳くと、不安げに皺よった眉間の跡がうっすらと見える。ぶつけて赤く腫れた、狭い額も。
「……そっか。一人きりで待たせてごめんね」
今日はもう、何処にもいかないよ。
耳元に聴こえてくるその甘い言葉は、途切れた音楽を再び蘇らせることができる、魔法の呪文。
それは、不安に押しつぶされそうになった光の全身を、優しく包み込んだまま、離さない。一度中に入り浸ると中毒になる、甘やかしのふかふか布団だ。その中で至福の微睡みに飲まれながら、光はぼんやりと呟いた。
ひとりでいるの、もういやだ……
大人に近づけば近づくほど、幼児期に戻ったみたいに孤独が怖くなる。
この不安の理由が一体何なのか、まだこの時の二人にはわからなかった。
<END> 2016.10.14 UP